第三十五話
淘汰されなかった履物




この世の中は、
驚くほどの便利さで満たされています。

履物ひとつとっても、
軽くて疲れにくいものが、
選びきれないほどあります。

それでも今日まで、
下駄はなくなりませんでした。

一般的に下駄というと、
通勤にはまず使えないし、
音はするし、クッション性もありません。
履くには、
ほんの少し慣れも必要です。

それなのに、
下駄は、
今も誰かに選ばれています。

なぜ、
淘汰されなかったのだろう。

工場で下駄と向き合いながら、
ふとそんなふうに考えることがあります。

文化だから、
という理由もあるかもしれません。




下駄は、日本の暮らしの中で
長く使われてきた履物です。
祭りや行事、
和装や晴れの日の装いと結びつき、
「日本らしさ」の象徴として
語られることもあります。

健康に良い、
という声もよく耳にします。
足指を使う、
姿勢が整う、
体幹が鍛えられる。
そういう考え方も、
理由のひとつになるかと思います。

お洒落として、
という見方もあるでしょう。
洋服に合わせることで
新鮮さが生まれたり、
足元に少し個性を出せたり。

どれも、
その通りだと思います。

けれど、
それだけでは説明しきれない“何か”があるようにも感じます。

「健康のために履いています」
と最初から言われる方は、
それほど多くありません。

「たまたま履いてみたら、
思っていたより楽だった」
「足に伝わる木の感触、
歩く時の音も含めて心地よかった」

mizutoriの下駄も、
そんなふうに、
触れた時の感覚に導かれて
選んでくださる方が多いように思います。 



便利さだけで比べれば、
もっと優れた履物は
たくさんあります。

それでも下駄を選ぶ、
その小さな選択には、
数値や言葉では測れない
履いた人だけに伝わる感覚があります。

下駄は、
履く人の意識に
やさしく働きかけます。

足の裏や指先を通して、
歩くという行動そのものへ、
意識が向く。

いつもと同じ道でも、
足元に気持ちが戻ってくる。

もしかすると、
下駄が淘汰されなかった理由は、
そうした感覚に
静かに働きかけてきたことに
あるのかもしれません。



下駄は、
「過去のもの」でも
「流行のもの」でもありません。

むしろ流行にならなかったからこそ、
消えなかった。

そして、
「必要以上に便利にならなかった」からこそ、
残ってきた履物だと思います。

木の台座と足を支える鼻緒、
この上なくシンプルな必要最低限の履物。

日常的な履物としては、
圧倒的に、他の便利な履物に押されています。

だからこそ、
「今日はこれにしよう」と
履く人自身が選択する履物に
なってきているのだと思います。

今日も、
どこかで誰かが
下駄を選んでいる。

その選択肢のひとつとして
在り続けられるように、
mizutoriもまた、
下駄をつなぎ続けていきたいと
思います。



次回に続く