第五十三話

私と工場

小さい頃、
工場は私の遊び場でした。

当時はまだ、
今のように下駄ではなく、
サンダルやシューズの中底を
つくっていた時代です。

工場の中には、
「ボール」と呼ばれる
畳二畳分ほどある厚紙のような材料が、
あちこちに積み上げられていました。

高さもさまざまで、
その上によじ登ったり、
高いところから低いところへ
飛び移ったり。

今思えば危なかったと思いますが、
当時の私にとっては、
最高のアスレチックでした。

↑:姪っ子たちが小さかったころ、会社探検をしているところ

工場には、
サンダルの底ゴムを削る機械もありました。

そのゴムの削り粉を集めては、
通路の土を掘り、
ビニールを敷いて水をため、
その上に削り粉を浮かべて、
落とし穴を作ったり。

工場の庭には
たくさん植木もあったので、
木の実や葉っぱを採ってきて、
石で潰しながら
漢方薬屋ごっこをしたり。

周りにあるものすべてが、
遊びになっていました。

そんな環境で育ってきたので、
遊びながらも自然と、
工場の中で行われている仕事を
見ていたのだと思います。

少し大きくなった頃には、
簡単な仕事を頼まれることもありましたが、
子どもながらに
やるべきことがわかっていた気がします。

きっと遊びの延長線上に、
仕事があったのだと思います。

今の私なら、
子どもが材料の上を飛び回っていたら、
間違いなく怒ると思います。

「危ないからやめなさい!」

と100%言うでしょう。

それに、
材料とはいえお客様に渡るものですから、
その上に乗って遊ぶなんてありえません。

もちろん、
当時も注意はされていましたが、
働いていたおじさんやおばさんも、
「絶対に遊ぶな」という強い感じではなく、
どこか見守ってくれているような
雰囲気がありました。

きっと
昭和の時代だからこその、
おおらかな空気だったのかもしれません。

↑:工場で働いてくださっていたスタッフさん

家族みんなで力を合わせて
家業をしていくことも、
当たり前の時代でした。

子どもだって、
手が足りなければ仕事を頼まれます。

配達にもついていって、
荷下ろしを手伝うこともありました。

そしてそのご褒美として、
帰り道にある屋台のラーメンを
食べさせてもらえるのが、
何よりの楽しみでした。

時代も変わり、
工場も変わり、
働く人も、そして私も変わりました。

工場も一部リフォームされ、
庭の植木も以前より減り、
子どもの頃の景色とは
少しずつ変わっています。

それでも、
子どもの頃に感じていた
あの家業ならではの空気感は、
今もどこかに残っている気がします。

↑:先代と当時飼っていたコタロウ@旧事務所前

昭和の町工場のムードから
なかなか抜け出せない部分とも言えるかもしれません。

けれど私は、
それも水鳥工業らしさだと思っています。

ものづくりの現場には、
材料の高騰や担い手不足など、
継続を阻むいくつもの壁が存在します。

そんな中でも
下駄を作り続けている理由は、
もちろんmizutori下駄を
より多くの方へ届けたいという思いがあります。

そしてこの思いの根底には、
家族や働く仲間とともに育んできた
この温かな記憶や環境を
守り続けたいという気持ちがあります。

今は家族も全員引退し、
一緒に仕事をすることはなくなりました。

だからこそ今いるメンバーと力を合わせて、
この下駄工場の物語を
少しでも長くつないでいければと思っています。

実は工場の壁には、
幼い頃の私が描いた落書きが
今も残っている場所があります。

工場にお越しの際は、
ぜひ探してみてくださいね。