第四十一話
下駄のある風景をつくる

縁側に腰掛ける人の足元。
商店街で買い物をする人たちの足元。
どの家の玄関にも、当たり前のように下駄が並んでいる。

ほんの少し前の日本には、
そんな風景が日々の暮らしの中にありました。


ドラマや映画を見ていると、
時代劇だけでなく、
昭和の中頃までを舞台にした作品にも、
下駄を履いている人々が登場します。

下駄は特別な履物ではなく、
日常の中にある、身近な履物でした。

カランコロンという音。
木の履物が道を打つ、あの軽やかな響き。

そんな生活の音が、
今よりもずっと近くにあった時代に、
どこか憧れのようなものを感じます。

もちろん、流れる時代に逆らうことはできません。

何でも手に入り、
時間を短縮することが良しとされ、
AIが人の仕事を担うような時代になりました。

一般の人でも容易にあらゆる情報を入手でき、
確実に便利な世の中になっています。

それでも時々、
人々の暮らしの音や温度から
少し遠くなってしまった日常を、
つまらなく感じることがあります。

残念ながら、
今では下駄は少し珍しい存在になっています。

店頭に立っていると、
「下駄って、いつ履けばいいんですか?」
とご質問をいただくことも少なくありません。

日本人の履物の中で、
下駄はすでに日常の履物ではなく、
どこか特別なものとして
位置づけられているように感じます。

もちろん、
すべての方にとってそうだとは言い切れません。

けれど、
そもそも下駄を持っていない、
履こうと思ったこともないという方は、
かなり多いのではないでしょうか。

それでも、
路地や通りを歩く人々の足元に、
下駄の姿がまったく見られなくなってしまったとしたら、
日本の風景として、
どこか物足りなく感じてしまいます。

『下駄のない世の中』になったとしても、
きっと困ることはないでしょう。
けれど、寂しい。

そう感じるのは、
下駄に携わる私たちだけではないと思います。

下駄のある風景は、
日本人にとって
どこか原点に戻るような
安心感のあるものなのかもしれません。

下駄を懐かしく思うことのない世代の方、
全く違う文化を生きてきた海外の方が、
ファッションとして下駄を取り入れる。
そういうことでもかまわないのです。

2000年以上前から
日本に存在してきた履物。

その下駄を未来へ残していくこと。
日本の風景から下駄を消さないこと。

それが、
私たちが下駄を作り続けている理由の
ひとつになっているのだと思います。



そして、もしこれから、
何気ない日常のワンシーンで、
下駄を履く姿が
少しずつ増えていくのだとしたら。

ノスタルジーとして懐かしむのではなく、
今の時代の中でつないでいく。

そんな風景を、
みなさんと一緒に
またつくっていけたら嬉しいです。

 

次回に続く